仇を詠む眼

 蕪村の一句に思う

恋愛はともすれば人の判断を狂わすことがある。恋愛は一種の熱病であり、あばたもエクボに見せてしまう魔力がある。恋愛に限らずのぼせ上がると、眼が曇り、判断が鈍り、取り返しのつかないドツボにはまり込んでしまう。

俳句の世界でも、「あんまり好きなものは、句にするな」という言葉があるくらいだ。要するに、まるっきり嫌いでも駄目かもしれないが、のぼせ上がるほど好きなものを句にすると、それを読んだ他人にとってはあんまり心地の良い物ではない。例えばこんな具合だ。

登校の 我が子まぶしき 春の朝

きっと本人は、朝日がまぶしい中を、自分の子供が学校に通学する姿を詠んだつもりだろうが、他人からみれば、それがどうしたということになる。どうしても自分の感情が先行してしまって甘ったるい句になってしまうのである。

ひとつの情景を俳句にする時と同じで、人を客観視する時には、やはり対象そのものを冷静に何の余分な感情を差し挟まずに見る眼を養う必要がある。人というものは、どうしても他人の子より、自分の子をひいき目に見てしまう。いわゆる親ばかというやつだ。そのような感情をいっぺんすっぱと捨て去って、良きことも悪きことも合わせて見ることが大切だ。

特に恋愛をしている人間の眼、自分の子を見る親の眼は、明らかに曇っている。この曇りを除く唯一の方法は、少し荒っぽい言い方だが、相手を仇と思って見ることだ。すると、その人物の長所や欠点を徹底的に分析するだろう。そうでなければ、仇討ちをやろうとしても、逆に殺されてしまうかもしれない。ところで蕪村の句にこのような句がある。

この村の 人は猿なり 冬木立

私が考えるに、寒い冬の旅の途中、村人に道を聞いた所が、その村人の言っている言葉の意味が、さっぱり理解できずに、あきれた感じで「だめだこりゃー」と冗談半分で詠んだ句であろう。しかしおそらく蕪村のこの判断はあっているに違いない。言っても分からない人にものを聞いた所で満足な回答が得られる訳がない。この滑稽みの中にある蕪村の客観的な分析力はたいしたものだ。

蕪村の客観の眼ではないが、本気で相手を分析しようと思えば、時には相手を仇と思って、しみじみ見ることだ。特に結婚する前はそうした方がいい。新規貸付でも相手をあまり信じ切ってはいけない。佐藤

 


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1999.3.4