能台本 石神桜
 

この台本を平泉の柳の御所跡のしだれ桜(石神桜)の精霊に捧げる

満開の石神桜
(2004年4月18日佐藤弘弥撮影)


作 佐藤弘弥

登場人物

 桜の精(シテ 老女と若女の二役)
 旅人(ワキ)
 清衡の亡霊(後シテ)

場面

 平泉 柳の御所跡

季節は夏
 

一幕
 

 遠くで蝉の声が聞こえる。

 草むらに老女(シテ)が佇んでいる。やがて老女は弱って力無く舞う。

老女(シテ) さて我は喉乾きしが、川移り、水はなくして、このままに、生きられるとも思われず、寄る年波にかんかんと照る日眩しく、この場にて消ゆる命の無念さよ。
 旅人(ワキ)がやってくる。


旅人 はてはて、そこに佇みし老いたる人は誰なるや。

老女 我を呼ぶ声の聞こゆる気もするが、老いたる我は耳遠く、聞こえぬ故にもう少し、大きな声でもう一度、言ノ葉掛けてくだされや。
 

 旅人は、ひたひたと老婆の元に駆け寄って、その弱り切った姿を見て驚き、抱き起こしながら


旅人 これはこれはお婆さま。いかになされた奥州に名残の桜ありと聞き、参ったところ、巡り合うあなた様こそ誰ぞかし。

老女 氏も素性もなき身故、名などはなきが、人我を「石神桜」と呼びそやし、春の花咲く頃などは、蝶よ花よと側に寄り、花見三昧する人のほろ酔いかげん見るうちに、我も百歳(ももとせ)を越ゆる齢(よわい)となりにけり。

旅人 お婆さま、しっかりしてや。桜木を見ようと思い来て見れば、樹木はなくて、木霊の姿となりて倒れいる。ああ、悲しきや。悲しきや。まずは水など呑みなされ、ほれ、この水筒の名水は、命の水と云われける金明の水と云われしものなれば・・・。
 

 旅人、水筒を腰より取って老女に呑ませる
地(謡)奥州の都と言えば平泉、北は津軽に外が浜、南に行けば白河の関を境に、陸奥の王と呼ばれし藤原朝臣清衡が、この場に座して祈りしは、生きとし生きる命ある万物万民皆々の平和に暮らすことぞかし。


老女 (水を少し口に含んで)ああ旨し。旨くて、旨くて、水とはな、何と美味しく有り難きもの。どなたかは存じませぬが、この婆(ばば)をお助けくださる心ばえ、末期の水と思いつつ喉潤せば、耳も聞こえて目も見えて、柳の御所に老醜を曝す我が身の恥ずかしき・・・。
 

 老女は姿を隠し、その後には若女が現れ、生き生きと舞い始める。

地 金明の水を呑みたる者は皆、命永らえ延命の舞など舞いて香しき桜の園に分け入りし心地とぞせり。


旅人 あら不思議。金明水の御利益か。乾きし人の姿なく、ただ美しき姫君の立ち現れて舞い踊ることこそよけれ、美しき。

若女 夢醒めて、目覚めて見れば、奥州の柳の御所に佇まう桜の花と生まれいて、すべてを見聞きして来しが、この場を通る大道の「平泉バイパス」とかや申したる工事に遭いて、四苦八苦、喉の渇きを癒す術、失われたるその訳は、北上川の川道を一町ばかり、東(ひんがし)に移して堤防築かれて、為す術なしの我が身なり。地下水脈も滞留し、息をもつけぬ有様に、折りから続く日照りとて、草木も住めぬ柳の御所とぞなりにけり。

旅人 事情を聞けば、さもあらん。地図にはありし北上の大河はなくて、カラカラに乾きし盛土の延々と北へと延びる景色のみ。この地は奥州平泉柳の御所とは言い難き、哀れな景色に候えば、涙もあふるる心地せり。
 

突如として雷鳴が響き。周囲が暗くなる。

清衡(後シテ)の亡霊が黒面で登場。


清衡 ゆうゆうと寝てもおられぬ。これ桜、浄土の園に眠る我、起こして何を、このワシに伝えんとするつもりかな。

若女 これは殿、安住の地の花園に眠りしところ、遙々とお出でくださり、心苦しく思いしが、是非とも、殿に知っていただきたき儀これあり。

清衡 はてその儀とは、何あろう。

若女 奥州の殿の在所の柳の御所、この聖地をば、大道通す企ての在りたることは、その昔伝えた通り、その道を東移し、まずまずと思いておれば、北上の大河も見えぬ有様に、柳の御所の木々たちも、ひとつ残らず伐採の憂き目に遭いて、ただひとつ我のみ残り柳の御所の「石神桜」と呼ばれけり。

旅人 奥州の古都平泉建都せる「藤原朝臣清衡公」とぞお見受けせしが見た通り、柳の御所の佇まい只々変わり栄華の跡も掃き溜めと変わらぬ様になりにけり。美しかりし評判の景色を見んと遙々と遠国よりも来てみれば、しだれ桜の古木なる「石神桜」の木霊の乾きし姿に驚きて、やっとぞ起こし、金明の水を何とか差し上げて、息吹き返すところなり。

清衡 あな悲し、命に賭けて護るべき祈りの都平泉。何たる景色となりたるや。桜の園の束稲の山にも桜見あたらず、たった一本残されし「石神桜」の瀕死とは情けなきかな。奥州の心は何処に消えたるや。ワシが自ら落慶の折に記した願文の心は何処に消えたるや。

若女 たとえ我が身は、消えゆくと云えども、奥州を万物万民生けるもの皆の楽土と祈念せる殿の思いを遺したき。

清衡 よくぞ申したそなたこそ、願文記す我が心体現したる桜にて、死なせはせぬぞ、奥州の天神・地神・仏たち、我が身に代えてこの桜延命さする覚悟なり。

清衡、怒りの舞を舞う。その間、雷鳴がなり、稲妻が交差する。
地 愚かなり。人愚かなり。桜木の木々の枯渇もそのままに世界遺産になるなどと、かの地守護せる大祖神「清衡公」も大激怒。

やがて、清衡は、この地を浄化するように静かな舞に移行し、静かな佇まいの地に戻る。
そして清衡は退場する。今度は若女がゆったりと舞う。

若女 野に山に緑織りなす奥州の柳の御所に生まれいて幸せなりや花と散るとも。
 
 桜の精の若女は、元あった場所に見事な枝振りを思わせて、凛として聳えて動かなくなる。


旅人 平泉、緑織りなす奥州の大河流れる吉土にて、永久に栄えと大祖神、祈りて舞えば、「石神桜」葉も茂り、枝振り戻り、目出度きぞ。了


2004.8.24 Hsato

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