瀕 死の桜 2006年も咲かず

平泉瀕死の一本桜

柳の御所跡の桜
2006年4月22日佐藤撮影

花 芽なき桜木悲し喩うれば戦後日本の母たちのよふ

瀕死の桜の智慧

人の思いの通りに行かないのが自然というものである。だから良いとも言える。何もかも人間の英知で変えられると思うのは、近代以降の人間の奢りそのもの だ。

私は平泉柳の御所跡に直行すると、祈るような気分で、二年前の夏、瀕死に陥った一本桜の前に立った。心ある人たちの努力によって、桜は奇跡的に枯死を免れ て、昨年葉を付けた。今年は、花芽がつくのではと期待されていた。

・・・じっと枝を見上げる。いくら見ても花芽がない。また今年も、花は咲かないようだ。相変わらず、周辺の土壌はバイパス工事によって荒れ果て、史跡公園 として整備されることよる工事も進んでいる。地下水脈が大きく変わってしまったことが、桜に決定的な害を与えてしまったようだ。

一方では、桜を切って、新しい元気な桜を植えた方が賢明だ、との声もある。しかし私たちは、この一本の桜にこだわりを持ちたい。それは自然というもの、あ るいは命というものの深遠なあり方を、人間が素直な気持ちで学ぶ態度がなければ、人間というものの未来はないと思うからだ。

それこそ、小さなほ乳類から進化した人間は、考えるということを知ってから、猛獣たちの影に脅える存在から、百獣の王のライオンをも凌ぐ、力をもって、こ の地上の王となって君臨する存在にのし上がった。一方、脳は急速に膨張して、文明と言われる知の巨大な体系を作り上げた。その結果、人間の奢りは絶頂に達 し、自然をも自分たちに従属する存在として侮る有様となった。

自然は黙っている。自然はただ黙々と人間の行動を見ている。この一本の桜もそうだ。だからこそ私は、この桜を守りたいのである。あらゆるものに神が宿って いるという考え方がある。これをある人はアニミズムというが、それが人間の宗教心のはじまりであった。人間は、いつの日にか、宗教心をなくして、自然への 畏敬をなくしてしまった。そこに神が存在するということを忘れた弊害は至るところに満ち満ちている。

先頃、長野のアルプスで、中高年の登山者の遭難事故があった。現在、日本では、「百名山ブーム」とかで、山は簡単に登って、畏れぬ存在になった。元々神の 山であった聖なる場所は、日曜登山家の、ハイキングの場所と化してしまった。

一木一草に皆神仏が宿る。このことを考えるならば、人間はもう一度、自らと自然との関わり方を見直す必要がある。そもそも、私たち人間そのものが自然の一 部から出来上がっているものだ。意識ということを持つことで、何か自分たちだけが特別の存在だという思いは、奢りであり幻想である。だからこそ、物言わ ぬ、この一本の桜の姿に一切の感覚を集中し、智慧を授かるべきではないか。そう思うのである。

 物言わぬ桜の枝に手を触れて一 木の智慧伺ふてみる


2006.4,25 佐藤弘弥

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