同人誌の原稿 −その他編

凡庸な意欲作 1992.12

 ぼくらがもうすでに知ってしまっていること−−「物語」というものが自由な精神の所産であるということそれ自体が、まさしくもって「物語」でしかないこと。
 ぼくらにいまできること−−既に今ある「物語」をずらしたり、異化したり、パロったりして、<差異>を創出し、それを消費して「物語」に少しだけ新しい「物語」を加えていくこと、ただそれだけ。
 内藤泰弘がかつて見せた「世界」の魅力は、<どこにもない世界>というどこにでもある世界を、<どこにもない世界>にする事が出来たから生まれた。「サンディと迷いの森の仲間たち」の孤島の冒険譚、「僕等の頭上に彼の場所」の魔石の飛行譚。これらは、ファンタジーとしての<お約束>である。しかし、内藤泰弘はそれを見事に<創作まんが>にした。
 しかし、今度の「CALL」のその余りの凡庸さは何なのだろう。
 コールドスリープによって同じ時を過ごすことの出来ないことから生じるディスコミニケーション、薄汚れた未来都市、飢えや貧困の一方での宇宙開発、青く美しい上弦の地球、孤児院上がりの屈折した天涯孤独の主人公、少女から女性へと変身を遂げた幼なじみ……。
 宇宙飛行士を題材とすれば、おおよそ思いつく<お約束>が登場されるが、この「CALL」では、「物語」というものが規制する制度を越えての<差異>が見えない。
 <そら>(空・宇宙)への憧れというのは、「サンディ」からこの「CALL」まで続く重要な主題である。「サンディ」と「僕等の……」の内燃機関など使わない道具を使って自力で空を翔ぶ爽快感は、内藤泰弘の豊かなテクニックと巧みな画面構成を以て読者を魅了した。
 だが、それはまったくのおとぎ話なのだ。<そら>へ向かうには金もかかればエンジンも使う。そして、もっと重要なのは、「飛ぶもの」と「飛べないもの」という峻厳たる区別だ。よく考えてみれば空を飛べたのは、狼男であり、魔石の所有者であり、売春婦の私生児であり、これらの人々はみな<異人>である。はっきり言ってしまえば普通の人は<飛べない>のだ。ただ、フランセスカに表象される残された人々とその想いを描いたという点では確かに内藤泰弘の成長があるのだし、ある意味での前2作品へのオトシマエ的な部分もあるだろう。
 作品そのものあまりの紋切り型さ故に評者は「CALL」に対しては高い評価を与えない。しかし、この作品が意欲作であり、次のステップへの生みの苦しみの場であることに間違いはあるまい。辛い評価は高い期待の裏返しである。これくらいで終わるタマのはずがない。内藤泰弘ってヤツが。

複製の時代の物語 1990.08

 <オリジナル>なもの−−それは、ひとの見果てぬ夢である。しかし、新しい<オリジナル>などは存在しない。既成の記号と記号とを組み合わせ、複製が複製をうみ、新しい物語は成立する。新しい物語は、ほとんど常に過去の物語のパロディと複製に過ぎない。この無限の連鎖の上に物語は成立している。現代の表現とはこの不毛さとの戦いでもある。この戦いは、自己の作品が<既にあった物語>の複製である、という冷徹な自己認識から始まる。認識すら出来ない者には、<物語る>資格などない。
 この物語不毛の時代において、物語のリアリティを確立することは非常にむづかしい。なぜなら、物語が物語のリアリティを支えているのではないからである。支えているのは世界観である。物語の世界観さえ明らかであれば、物語の複製は新しい姿を示し、別の光の中で輝く。

 世界観さえ確かであれば、パロディや複製がどれだけ露骨であろうとも、物語は個性を持ち、輝きを放つ。確固たる世界観の前にパロディと複製は親和し、作品の中に統合される。世界観だけは、他者のものは用いることはできない。使えるとしても、それは、年代記の場合だけである。「ヤマト」が失速し、「ガンダム」が生きながらえているのは、宇宙世紀という世界が存在し、アムロやシャアがなくても物語世界は成立するからである。
 また、凡百の美少女・メカアクションOVAが、見落としていたのは実にこの世界観の問題である。これら作品の方法論それ自体は決して間違っていない(いなかった)。しかし、手段と目的を取り違えては何にもならない。過去の物語のパロディや複製そのもの、そして、美少女・メカアクションそのものが、語りたい物語では困るのである。

 しかし、我々は、パロディや複製に埋もれたながらも、確固たる世界観を持っているのを、GAINAXというクリエーター集団の創り出した作品の中にみることが出来る。「オネアミスの翼」、「トップをねらえ!」、そして、「不思議の海のナディア」…。彼らの創り出した作品には、常に厳然とした世界観が存在している。

 「オネアミス」における有人宇宙飛行、「トップ」の美少女・メカアクション、「ナディア」の海洋冒険ロマン…。これらは各々の作品の表層を鮮やかに飾るが、送り手たちはこれらの要素が描くためだけに作品を作ったわけではない。そして、合間に挟まれる過去の作品(例えば、宮崎駿であり、宇宙戦艦ヤマトである)の引用とパロディは、さらにその表層の上を軽やかに翔ぶ。しかし、これらのパロディはそれ自身だけでは生きられない。内部からの光に照らされてこそ輝く。自ら輝かない星々を描くためだけに、送り手たちは作品をつくっているのでもない。

 奥底に隠された語るべきことは常に「人とは何か」に対する問いかけである。物語というのは本来常にこうした「自己及び人間とは何なのか?」という問いかけという面を必ず持つ。もちろん、そういう問題提起は、テーマという形で大上段に構えて振りかざされるものではない。だが、物語を構成する要素としては欠くことのできないものである。それを描かないあるいは描けなかった物語は、単なるストーリーであり<死んだ物語>でしかない。

 「不思議の海のナディア」をとって考えれば、ノーチラス号という<楽園>においての個人のあり方の問題を考えることが出来る。ノーチラス号という世界は、外界とは切り離された<個人>の集団によって構成されている。ここにはいわゆる<支配関係>は存在しない。ネモは船長であり、エレクトラは副長ではあるが、彼らが全員を支配するわけではない。ナディアとネモ船長ですら基本的には対等である(もっとも、今後のストーリーでどうなるかまだ微妙だが)。

 さらにもっと原初な支配関係を考えてみれば、親子関係が消されている。ジャンは両親ではなくおじさんに育てられている。ナディアは(とりあえず)天涯孤独だ。グランディスも結婚に失敗し、親と死に別れている。これは実は結構重大な問題だ。対等な関係を物語の中に作るためには親の存在は邪魔である以上、親子関係は消されるしかない。 切り離された<個人>が集団でひとつの目的(この場合はネオ・アトランティスを倒す)に向かっていく、という世界はある種理想である。なぜなら、個人が個人としての価値を持ちながら、それが正の方向に統合されていくことは、空想的理想的民主主義の根幹でもあるからである。だから、菜食主義者であり、人殺しを忌み嫌うナディアの存在が、当惑されつつもこの<世界>で許容されているのである。

 ここ数年のアニメーションの非常な質的低下を考えるとき、送り手たちが、<物語>を見失ったことにその原因がある。そして、生み出したものといえば、閉塞された世界しか描けないOVAと、安易なチルド向けTVアニメである。マニア向けと子供向けなら<物語>を見失ってしまっても創ることができるだろう、という送り手たちの大いなる誤解は、事態をますます悪化させた。混迷はますます深まるばかりである。

 確かにこの状況下で作品を創ることは非常にむづかしい。しかし、そういった状況でのGAINAXの真価とは、この<複製の時代>における物語の描き方のひとつを見いだしつつある、ということではないだろうか。もちろん、GAINAXのやり方だけが正しいとは言わないし、このやり方ばかりでもまた問題が生じるだろう。だが、希望の光が少しでも見える以上、大事に育てていくべきであろう。もしかしたら、最後の希望の光かもしれないのだから…。

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