58.周防国  山口県防府市国衙  JR山陽本線防府駅  2004.07.31


周防国府跡


周防国は、国府研究者にとって特別な国である。それは後に山口大学の教授になる三坂圭治が昭和8年(1933)に著した「周防国府の研究」が、我が国の国府研究の嚆矢となったからである。
三坂は現地を精査し、古文書にあたり、現在の地名、遺存地割りによって、防府市の国衙地区に八町(870M)四方の国府域と、二町(218M)四方の国衙域を推定し、古代の国府プランを復元したのである。

周防国は文治二年(1186)に、源平合戦で焼失した東大寺を復興するために、東大寺の造営料国とされ、東大寺から派遣された僧が国務をとった。南北朝時代になると大内氏が勢力を伸ばし、東大寺の権益を侵すようになる。そこで、応永六年(1399)東大寺は大内義弘と交渉し、協定を結んだ。その文書の中に、「土居八町」は東大寺領として、治外法権を認めるという一項がある。三坂はその土居八町という言葉に注目して、周防国府の復元を試みたのである。


周防国府
昭和12年(1937)二町(218M)四方の国庁域、八町(870M)四方の国府域の四隅、西限を画する大樋土手が、国指定の史跡に指定された。


朱雀大路
天神通から国衙跡へ向かう古代の
朱雀大路。住所表示は国衙3丁目。
周防国衙跡史跡公園
朱雀大路を挟んで史跡公園が広がる。


国衙跡史跡公園から南に東林寺を望む
周防国庁は東大寺料国であったために、東大寺の僧により管轄され江戸時代まで存続したらしい。江戸期に入ると毛利氏により東大寺から離され、国衙という地名だけが残った。

国庁の建物は国庁寺という寺として明治まで存続したが、明治4年(1872)解体され、惣門は阿弥陀寺に移築された。


国庁の碑
国庁寺の官人平重寛、重勝が建立。
ああ、古の昔、国毎に庁有り。
今や寥々として聞こゆる無し。
而してこの庁独り存す。
是、豈
(いずくんぞ)記せざるべけんや。
よって謹んで典に拠り古にかんがみて其の事を碑陰に書して、以て不朽に伝ふ。
築地跡
国衙域を囲んでいた築地の遺構。
こんもりと盛土されて長く続いている。
陸奥国庁多賀城跡にも同じような遺構があった。



佐波神社(周防国総社)

周防国総社は金切神社である。仲哀天皇が筑紫征伐の折りに立ち寄られ、賊軍討伐の祈願のため、天照皇大神ほか十三柱を祀られたのが金切神社のはじめという。明治四十年(1907)に勝間神社(浜の宮)、八幡社、日吉神社を併せて佐波神社と改称した。


佐波神社の鳥居
旧山陽道から佐波神社の階段を望む
拝殿
何もない広場が広がる。がらーんとしている。


周防国分寺


周防国分寺は全国の国分寺の中で、もっとも活発に活動している寺である。創建時の伽藍配置を残しながら、堂々たる堂宇を誇っている。

国の重要文化財の金堂は、平成9年(1997)から7年の歳月をかけて、大修理が実施された。平成16年(2004)9月に完成し。11月に落慶法要が営まれる予定である。

周防国が東大寺の造営料国であったことから、東大寺から派遣された国庁目代覚慶上人により、正中2年(1325)周防国分寺の復興が行われ、併せて寺料が確保された。以後、室町期の大内氏、江戸期の毛利氏もこの寺を庇護し、今日に至っている。

創建時の境内は2町(218M)四方の方形で、総寺域は61町歩(18万3千坪)あったと伝えられているが、現在は東西が1町10間(127M)、南北2町(218M)の長方形である。

国分寺仁王門
毛利輝元により慶長元年(1596)に
建立された。
塔跡
昭和28年(1953)に実施された発掘
調査で、塔の基壇跡が検出された。


金堂
古代の金堂基壇の上に建っている。
国の重要文化財。平成の大修理が終わり、落慶法要を待つばかりだ。
どことなく東大寺の大仏殿に似ている。浄瑠璃山と号する真言宗の別格本山だ。


仁王門にいたる土塀
時代劇に出てきそうな趣がある。
古山陽道
古山陽道に面して続く国分寺の土塀。


各時代の金堂
全国にある国分寺だが、時代と共に規模が小さくなって最後は薬師堂だけ残るというのが普通だが、当寺は最後の堂が一番立派だ。こんな例は珍しい。
妻側から見た金堂
重層の入母屋造で、堂々とした風格。安永9年(1780)毛利重就による再建。  (周防国分寺展歴史と美術より)


金堂の仏たち                 (周防国分寺展パンフレットより)
金堂須弥壇上に並ぶ仏像。中央の本尊薬師如来像の光背は、とてつもなく大きい。両脇は日光月光菩薩。その左右が四天王像
薬師如来は室町期、他は平安期の作で、いずれも国の重要文化財である。
この他にも50躯を越す仏像が安置されており、全国の国分寺の中で、これだけの仏像が残されているのは、当寺だけではなかろうか。


四天王像
ほんとうはこの仏達が国分寺の主役である。須弥山の四方に居て仏法を守るとされる。

国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」である。仏を守護する四天王によって、
国家の守護を願ったのである。本来ならこの四天王こそ、本尊に並んで尊ばれなければ
ならないのに、ほとんどの国分寺で忘れ去られているのは不思議である。
                            (写真は周防国分寺展パンフレットより)
多聞天
北方を守る。
仏の説法をよく
聞いたという。
別名毘沙門天
武神。福神。
増長天
南方を守護する。
無量百千の鬼を
従える。
五穀豊穣を司る。
広目天
西方を守る。
千里眼で世を守る
竜王を従える。
持国天
東方を守護する。
別名治国天。
国の守り。

周防国分寺展
2004年6月25日から8月1日まで、山口県立美術館で開かれた。国分寺金堂が平成の大修理中で、そのあいだ安置されていた仏像を、公開しようと企画された展示会で、国分寺を知る上で大変貴重な催しであった。


山口駅前
山口駅で降りると駅前広場に
周防国分寺展の派手な広告塔が、、、
県立美術館
明日でお終いという日にやっと
間に合った。


周防国分寺金堂落慶法要


2004年11月7日(日)、周防国分寺は大勢の参詣客で賑わっていた。1997年(平成9年)から、7年かけて行われた国の重要文化財 金堂の大修理がようやく終わり、晴れの落慶法要の日を迎えたのだ。土曜日の前夜祭から防府の町は、国分寺一色に染まった。

快晴の当日午前9時、稚児行列が国分寺を目指して出発した。午前10時、行列が市内を巡って国分寺に到着。落慶法要が始まった。餅撒きや、三池孝尚師の法話などで盛り上がり、午後には琴の演奏に続いて、なんと林家こん平師匠が落語を披露といった祝賀行事が続いた。

古き天平の官寺が、平成の御代に庶民の寺として見事に蘇った盛事であった。

参詣客で賑わう仁王門 境内は大勢の人で埋まった


市内巡りを終えた稚児たちも金堂をバックに記念撮影


落慶法要の日の周防国分寺金堂


おまけ 1


JR山口線を走るSL。県立美術館で周防国分寺展を見たあと、山口駅で出会った。
新山口から津和野まで1日1往復走っているという。運が良かったな。

2重連結の機関車


おまけ 2


室町時代の大内氏の城下町山口。新幹線の止まらない県庁所在地である。
この町にある瑠璃光寺の国宝五重塔は、一見の価値がある。檜皮葺の優美な塔で、
私が訪れた五重塔のうちで、もっとも美しい塔だと私は思う。

瑠璃光寺の五重塔
高さ31.2メートルの檜皮葺。息をのむほどに美しい。


周防国地図


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