川村渇真の「知性の泉」

重要部分を避け、勢力争いばかり取り扱う


ワイドショーと化した日本の政治報道

 日本の政治報道には、以前から非常に面白い特徴がある。まるでワイドショーのように、関連する人々の動きばかり追って、もっとも重要な政策や政治活動の成果などを報道しようとしない。誰が総理になるとか、どのグループとどのグループが仲が良いとか悪いとか、分裂したり合体したとか、誰が失言したとか、政党支持率がどのように変化したとかいった内容だ。
 信じられない人は、実際にどんな内容が報道されているのか、テレビ番組や新聞を見て調べてみるとよい。各政党または各政治家の政策、本当の意味での政治活動、活動した結果や成果などが、全体の中でどれぐらいの割合か明らかにするのだ。測定値として適当なのは、テレビであれば放送した時間、新聞であれば文字数または面積だろう。
 実際に調べてみると、途中でバカバカしいと感じるに違いない。政策や成果などに含まれる内容が、ほとんど出てこないからだ。テレビでは、ごく一部の番組で、たまに少しだけ取り上げている。しかし、話している内容は表面的で、残念ながらレベルは低い。新聞となると、記者が書いた記事ではほとんど見たことがない。大学教授などの専門家が書いたものが、例外的に載っているぐらいだ。
 新聞社やテレビ局がもっとも力を入れているのは、なんといってもワイドショー的な報道方式である。政党や派閥といったグループの関係を中心に置きながら、その動きを細かく解説するとともに、もっとも話題の人にインタビューを試みる。テレビなら、それを放映しながら、あまり意味のないことを付け加えたりする。また、政治家のダメ発言もそのまま流し、結果的にダメ行為を手助けしている。
 こうした方法では、とても報道とは呼べない。これからは、「政治ワイドショー」とか「ワイドショー政治編」などと呼んだらどうだろうか。「政治記者」の肩書きも「政治レポーター」に変更する。そうすれば、実情に合っているし、読者や視聴者が報道だと勘違いする人も出ない。ただし、現場の記者は少し恥ずかしいかも知れない。といっても、やっていることのレベルが低いので、身分相応の恥ずかしさでしかない。それに、数週間もすれば慣れて、恥ずかしいと思わないようになるだろう。
 というわけで、これ以降では「政治報道」ではなく「政治ワイドショー」と呼ぶことにする。同様に、「政治記者」も「政治レポーター」と呼ぼう。

政治ワイドショー方式だと勉強しなくて済む

 では、政治ワイドショー方式が、なぜ採用されているのであろうか。採用した本人ではないため推測することしかできないが、おそらく、政治レポーターもその上司も、勉強しなくて済むためではないだろうか。
 どのグループとどのグループが協力しているとか、どのグループと仲が悪いとか、誰がリーダーに変わったとかという話は、専門知識がまったくなくても取材できる。そして、記事を書くのも簡単だ。
 政治ワイドショー方式を採用すると、誰がどこに行ったか、誰と会ったかなどの情報が重要度を増す。それらを細かく調べなければならず、いつも政治家を追っかける必要が生じて、かなり忙しい。勉強する時間など、あまりないかもしれない。またワイドショー方式なので、政治に関して深い知識も求められない。政治レポーターに限らず、多くの人は、必要だと感じなければ勉強しないものだ。ワイドショー方式を採用すると、政治に関して深く勉強する意欲も低下させる。
 とくに新人から担当した場合は、ただ忙しく追いかけて時間が過ぎて、何年も経過してしまう。10年ほど過ぎて気付いたら、政治に詳しくないが、政治家の知り合いが多いという人材になっていたとしても不思議はない。実際、そうなる可能性の方がはるかに高い。こうした人材でも、政治ワイドショーに必要な政治レポーターとしては十分なのだ。さらに、ワイドショー方式を長く続けると、政治記者がほとんどいなくなり、政治報道をやりたくても人材不足で不可能になる。
 もともと報道の関わる記者というのは、普通の人よりも勉強しなければならない職業であろう。いろいろな話題を扱うし、取材相手の話していることが本当かどうかは、ある程度の知識がないと判断できない。また、専門知識だけでなく、物事の評価方法とか、論理的に思考する方法なども求められる。そのためには、記者をやめるまで勉強するのが当たり前で、幅広く勉強し続けなければ、良い記事など書けない。
 ところが現実には、勉強をしないばかりか、記者クラブという競争否定組織を作って、ほとんど努力しなくて済む環境を整えている。勉強しないので政治ワイドショーになったのか、政治ワイドショーのために勉強しなくなったのかは、よく分からない。しかし、現状が最悪に近い状況であることだけは、間違いなさそうだ。

政治家のレベルの低さは、勉強しない理由にはならない

 政策に関する話題を取り上げないと指摘をすれば、政治家のレベルが低いことを理由に挙げる人が必ず登場する。しかし、それが一番の理由だろうか。さらには、勉強しなくて済む理由に使っているだけではないだろうか。そう判断する根拠は、以下のとおりだ。
 もし(政治レポーターでなく)政治記者が、政策を真に求め続けたら、どんな状況になるだろうか。政策をほとんど語れない政治家でなく、政策を語れる有能な政治家を多く取り上げるはずだ。また、何でも語れれば良いのではない。記者が良し悪しを判断できると、低レベルな内容しか語れない政治家も、相手にしなくなる。年齢に関係なく、与党とか野党とかの区別もなく、本当に優秀な政治家の意見を採り上げて記事にできる。
 政治記者の能力が高まると、良し悪しの判断基準も優れてくる。国家の表面的な幸福などに誤魔化されず、国民の幸福を重要な基準として持つようになる。そういう基準を多く満たした政策を優先的に取り上げ、国民に伝えるように変わる。
 語った政策だけを報道していては不十分だ。実際の成果がどの程度だったのかも調べ、語った内容と結果が一致するのか、後から評価できるようにする。語った内容を整理して残したり、適切な評価方法を勉強する必要がある。最終的には、国民の投票に影響を与えて良い変化を生じさせることなので、その点まで考慮して記事を書く。
 政治記者がこうした活動を続けると、内容が伴わない政治家が困るようになる。政治家へのプレッシャーとして作用するため、政治家も勉強するように変化する。つまり、政治家の質が低い場合、良い方向へ向かわせるのが報道の役割なのだ。政治記者が圧力をかける側なので、政治家のレベルが低いことを理由にはできない。
 以上のような意識を持てば、取材方法や記事の書き方も大きく変わる。各政治家の個々の行動が、国民にとってどんな影響があるのか、長い目で見て本当に良いことなのか判断するはずだ。その結果と照らし合わせながら記事を作る。必要に応じて、各分野の専門家の意見を参考にすればよい。ただし、有名な専門家でもレベルの低い人がいるので、それを見分ける能力も必要となる。記者自身が論理的な思考能力を身に付けると、見分けるのは容易なはずだ。

他の分野でも誉められた状況ではない

 ここまで政治という分野を取り上げたが、他の分野ではどうなのだろうか。自分の専門であるコンピュータでは、技術的に難しいためか、とんでもない記事をよく見かける。こうした分野は、よく理解している記者を育てて、その人に書かせるしかないだろう。
 また、研究中の教育分野では、本当に重要な要素が欠けている記事が多い。この原因は、教育改革関係者のレベルが低いためで、記者の能力が原因ではないだろう。記者の論理的な思考能力が高ければ、教育関係者のレベル低さに気付かないこともないが、教育改革は問題が非常に難しいので、少し詳しいレベルでは気付けない。ただし、良い意見を持っている人も少しはいるので、それを採り上げてない点は、大いに反省すべきだ。
 事件や事故の報道では、警察の記者クラブが活躍していて、報道と呼べないレベルに落ちている。多くの情報は警察からの入手だが、とくにテレビでは、それを事実の形で放映している。一部の新聞では、情報源を少し書くようになったが、目立たない書き方なので、あまり自慢できない。
 その他の分野も含め、全体的に見ると、報道と呼べないレベルの状況が続いている。本当に重要なのは何なのか考える点が欠けている。たとえば、交通事故の処理を早く進めるために、死んだ歩行者が悪かったことに捏造してしまう事件では、どんな部署をどのように変えれば再発しなくなるのか明らかにして、その権限のある人に改善を求めたりしない。徹底的に求めれば、改善への圧力になるというのに。
 こうした日本の現状は、何人もの優秀な人が指摘し続けている。しかし、新聞社やテレビ局などは、いっこうに改善しようとしていない。決定権を持つ責任者は、いったい誰なのだろうか。そして、どんな圧力をかけたら、改善するのであろうか。

(2001年3月18日)


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