川村渇真の「知性の泉」

学歴や肩書きの重視は、自分で評価することからの逃避


有名校の卒業や有名企業の所属だけで高く評価する傾向が

 会話の中でよく耳にする内容に、「○○大学を卒業したんですか。凄いですね」とか、「○○企業にお勤めなんですか。凄いですね」がある。いずれも、本人の直接的な成果によって評価したのではなく、その人が所属している組織だけを見て評価した言葉だ。
 このような考え方は、会話の中に登場するだけではない。企業が社員を採用するときや、初めて一緒に仕事をする相手を評価するときなど、かなり見受けられる。人物の経歴を表現する場合にも、卒業した学校名と勤めていた企業名は欠かせない。「日本は学歴社会」と言われることも多く、日本社会の特徴の1つと言っても過言ではあるまい。

学歴の重視は、入学時の評価に等しい

 これほどまでに重視されている学歴だが、それだけの価値があるのだろうか。その点を、よく考えてみたい。日本の有名大学は、入学するのこそ難しいが、いったん入ってしまえば、普通に勉強することで無理なく卒業できる。つまり、卒業の肩書きは、在学中の成果ではなく、入学できたかを意味している。
 そうなると、学歴で評価することは、入学時の評価をそのまま持ち込むことに等しい。では、入学時に何を評価しているのだろうか。日本の学校教育では、残念ながら、暗記重視の勉強が中心に置かれている。試験も、正解の存在する問題が中心だ。大学入試も同じで、暗記重視の勉強がどれだけ得意かで、入学できるかが決まる。
 ところが現実社会では、正解のない問題の解決能力が大切である。正解のある問題は、いろいろと調べることで容易に解決でき、正解のない問題に比べて格段に簡単だ(「正解のある問題が一番簡単」を参照)。また、正解のある問題を解く能力と、正解のない問題を解く能力では、その性質がまったく異なる。正解のある問題がいくら得意でも、正解のない問題を解決する能力とは、ほとんど関係がない。正解のない問題の解決では、問題の性質によって異なる能力が求められ、適任者は問題ごとに違う。このような傾向を理解すれば、学歴重視がそれほど意味を持たないと分かるはずだ。
 どの会社に勤めているかも、学歴と似たようなものといえる。入社してしまえば、大きな失敗でもしない限り、続けて勤められる可能性が高い。勤務先の重視は、入社した時点での評価であり、その後の成果による評価ではない。

自分で評価しないと、責任も発生しないので安心

 それでも学歴を重視するのには、きちんとした理由がある。ことの良し悪しには、直接関係のない理由だが。
 自分で評価するということは、必然的にある程度の責任が発生する。誰かを採用する場合を考えてみよう。学歴でなく自分の評価で採否を決めた場合、問題となるのは、予定した能力を合格者が発揮できなかったときだ。採否の判断が適切でないと思われ、採用決定者の能力が低いと評価される。逆に学歴重視で採用を決めれば、合格者がダメだったとしても、仕方がないと判断される。自分へ火の粉がかからずに済むわけだ。できるだけ安心したい気持ちが、学歴重視へと向かわせる。
 このような傾向は、減点方式の評価を採用している組織ほど強い。何もしないことが悪い評価につながらないとしたら、何もしないほうを選ぶ人が増えて当然である。わざわざリスクをおかすようなことはしない。学歴重視の採用基準は、組織の能力評価方法にもかなり関係している。
 よく考えてみると、採用の合格者を選ぶ作業は、そう簡単ではない。実際に仕事をやらせてみて判断するのではなく、試験や面接だけで判断するからだ。多くの場合、限られた短い期間で判断するので、余計に難しい。また、独創的な人材を求めるなら、採用者数人の中で一人ぐらいしか芽が出なくて当たり前だ。これらの傾向を理解すれば、採否判断の評価方法も変わるだろう。

自分で評価しないと、ウソやデマに惑わされやすい

 自分で評価しないことは、大きな欠点を持つ。言われたことを鵜呑みにして、そのまま信じる傾向が強いのだ。逆に、自分で評価する人なら、言われた内容を自分なりに考えてみる。本当に正しい意見なのか、事実を元にした評価なのか、全体の流れが論理的であるか、などと考えをめぐらせる。たとえ有名人の発言でもだ。これが非常に大切で、ウソやデマを見抜くための重要な基礎となる。
 これからは、何事でも自分で判断する時代である。何を聞いたときでも、本当かどうかを考えてみる。自分だけでは判断できない内容なら、友人やインターネットを活用して調べればよい。そんな癖が付けば、根も葉もないウソや、非論理的な意見を信じない能力が身に付く。結果として、社会全体の適切な判断につながる。
 そのための第一歩として、学歴や所属組織を重視することを止めよう(当然、必要がない限り、学歴なども尋ねない)。大切なのは、本人自体なのだ。

(1997年1月31日)


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